国民を縛る条項満載の自民党の改憲草案!

昨日「安倍政権下で立憲主義が破壊されてきている」という点と「自主憲法議論で機は熟したというのは安倍政権にとってだけで、国民の中ではまだまだ」ということを書きました。何度も繰り返しますが、改憲は国民の権利であり議論を深めることはむしろ行うことだと考えています。一方で、安倍政権がいうように憲法を変える期限を2020年に切るのは変な話で、その前にやるべきこと、つまり何をどう変えるのか?その理由は?というところをしっかりと説明しなければなりません。

その内容についてが、もし自民党の憲法草案であれば、これはもうお話にならない内容だといえるでしょう。また、改憲に向けて使われる手法にもまた目を光らせておく必要があると思います。今日は、その二点を書かせていただきます。

自民党憲法草案には、国民を縛る条項が多々織り込まれている

自民党が通したい憲法とはどんな内容なのか?自民党は草案を出しています。案があるということはレスペクトすべきところですが、突っ込みどころが満載なのです。それは、憲法は権力者を縛るものなのに、国民を縛ることが多々書かれているのです。以下にポイントを挙げたいと思います。

現行憲法13条にある個人の尊重「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」に関して、自民党の草案では「全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない」になっています。

まず「人」が「個人」になっています。個人というと一人一人の多様性や人権を認めるという解釈に近づきますが、人というと範囲が広すぎる。集団としての人、秩序の中の人ということで意味が違ってきます。つまり公の利益、そして公の秩序が優先されるというのは全体主義につながる恐ろしいことだと思います。これは21条の表現の自由にも関連しており、公益及び公の秩序を害しない、という前提が記されています。

公の秩序も必要ではありますが、ポイントはこんなことを憲法に書いてしまうと、権力が濫用しかねないということです。権力はただでさえ人々を縛る法律を作れるわけです。だからこそ、その権力を縛る憲法があるのに、国民に公の秩序といった制約を強めることがおかしいということなのです。

例えば、2015年に強行採決された、違憲といわれた安全保障法制に反対して国会前に集まったデモの人達は、公益を害するといわれてしまうと規制の対象になる可能性さえでてきます。さまざまな市民団体のデモや沖縄の基地反対の運動もしかりです。

自民党憲法草案には、価値観の押し付けがある

13条や21条は人権や表現の自由に関することですが、他には24条の家族に関する条項など、価値観の押し付けがあります。「家族は互いに助け合わなければならない」と。家族が助け合うことは素晴らしいと思います。ただ、これもなんで憲法に書くのか?こういうのがあると、家族関係がうまく行ってなかったら処罰される法律が作られかねない。また、家族間で助け合えない家庭だと、社会保障的なものが得られにくくなる可能性だってあります。

「国を愛せ」もそうですが、憲法に書く内容ではないと言っているのです。愛するかどうかは、人それぞれの魂から出る思いです。こんなことが権力を縛るべき憲法に書いてあることがおかしいのです。

公の秩序の強調や、価値観の押し付けといった一連の流れをみると、自民党の憲法草案が目指すものは、昭和初期の第二次世界大戦前のものなのだなということが推察されます。国民の自由を制限し、国家の力を強めて、家族観などの価値観を押し付けてくる。まさしく、思想統制型です。

さらには、9条に国防軍を書き込むことや、徴兵制に可能性を残す文言があるのも大きな問題だと考えます。25条の3として緊急事態条項を織り込むと、諸外国に派兵しやすくなります。自民党は、この項目は主に、大災害等が起きたときに国民の権利を一時的に縛るだけのものといっていますが、まず国民の権利を縛るという時点で大きなリスクを内包しています。さらに、国会の議論の中では、緊急事態法のような中央に権力を集中させるのは災害対策としてむしろ向かない。それよりも地方分権を徹底して、現場に判断を委ねるようにすべき、ということのようです。災害対策というカムフラージュです。

耳当たりの良いものを入れて、まずはお試し改憲というアプローチはいかがなものか?

緊急事態条項が、災害対策をカムフラージュした海外派兵を容易にするものと書きました。これと同じような装飾を施そうという動きがあります。教育の無償化や環境権を入れることです。比較的国民が受け入れやすいものを入れて憲法改訂をしやすくしようとする動きです。まずはそれだけやればというのは、改憲アレルギーを払拭するための「お試し改憲」と揶揄されています。

環境権とは「生活を営むに際して、良好な環境が保証される権利」といったものです。いい感じかもしれません。教育の無償化もいいでしょう。これは法令でできることですので敢えて憲法に書き込む必要はありませんが、権力を縛るという意味で書き込むぐらいの勢いだと言いたいのでしょう。この二つは受け入れやすいのかも知れません。

問題は、これらの耳当たりの良い条項が「価値観や思想信条の自由を縛る条項を隠すためのオブラートとして使われている」という気がしてならないということです。自民党の憲法草案にある、基本的人権や思想の自由を抑圧する条項を覆い隠すために、教育の無償化や環境権といった耳当たりの良い条項を並べているのではないかということです。

恐怖を煽る政治に気を付けなければならない

秩序は必要。特に近隣諸外国の脅威がある以上対応策を練らなければならない、といいます。ただ、これも慎重に見ていく必要があります。つまり、外国の脅威を煽って改憲にもっていこうとしないかということです。

今、国会で審議が紛糾している共謀罪。これはテロとは関係のない法律にもかかわらず、ましてやテロの定義もせず、国民の恐怖を煽って法制化しよとしています。これがないとオリンピックやパラリンピックが開けない、テロを防げないという具合にです。その割には、北朝鮮がミサイルを発射しているにもかかわらず、安倍首相はじめ多くの閣僚が連休中に外遊している。外務省に至っては、政務三役が4日間も不在とか。彼らは逃げているのか?それとも、ミサイルは飛んでこないことを分かっているのか?のどちらかでしょう。さすがに閣僚が逃げたりはしないでしょうから、ミサイルの脅威はさほどないと思っているのでしょう。

北朝鮮に最も近い韓国でさえ、ミサイルが発射された後に日本で地下鉄等が止められたことに関して、過剰反応し過ぎとの意見が多かったようです。そもそもリオデジャネイロオリンピックでは、安倍マリオ首相は「日本は世界一安全な国だ」とおっしゃっていたのですから。

ヒットラーの右腕だったヘルマン・ゲーリングという人が言っていた恐ろしい言葉があります。それは「もともと普通の人々は戦争をしたいと思っているのではない。しかし結局のところ国の政策を決めるのは、その国のリーダーたちである。民主主義であろうと、ファシズムの独裁であろうと、共産主義であろうとそれは同じだ。『自分たちの国が外国から攻撃されている』と説明すればいい。そして『平和主義者は愛国心のない、国家を危険にさらす人々だ』と訴えさえすればいい。この方法はすべての国で同じように効果的である」というものです。

諸外国の恐怖を煽って作ろうとしている共謀罪の手法を見ていると、憲法9条に手を付ける際、この手法を取られる可能性があるということを認識しておかなければなりません。

要するに中身も進め方も無茶苦茶

憲法の議論は大いにやりましょう。しかし、自民党草案にみるような国民の人権や価値観を縛る条項を憲法に書き込み、戦前の価値観に戻そうとしていることには大反対です。更にそういった憲法を、環境権や教育の無償化というオブラートに包み、さらには諸外国の脅威を必要以上に騒ぎ立てて国民の不安を煽っての改憲論議にもっていく、というのは取り返しのつかない危険性を内包していると言わざるを得ません。

村上のりあつ【衆議院】大阪府第1区総支部長
大阪生まれ、大阪育ち。 同志社大学卒業後は主に東京で仕事をし、アメリカのイェール大学では経営学を学びました。 コンサルティング会社、グローバル企業であるロイター通信やフォード自動車等では人事の責任者として経験を積み、長年ビジネススクールの講師も務めております。 グローバルと日本の両方の経験を、是非とも大阪の皆さんとともに国政に活かしたい、その思いでいっぱいです。

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