改革を装う与党と維新の虚飾

このブログのアイキャッチの絵は、錯覚を誘うもので、これまでにもどこかで見られたことがあるのではないでしょうか?おばあさんの顔にも見えるし、若い女性の顔にも見える… 私には、錯覚を誘う虚飾がいまの政治で行われていることに関する危機感があります。

先週末(2月5日)のブログで自民党の保守観について書きました。言論の自由など、国民の自由を制限し、昭和初期の第二次世界大戦前のように国家の力を強め、家族観などの価値観を押し付けてくる。まさしく、思想統制型のものです。

一方で、そもそも保守とかリベラルとかという線の引き方がナンセンスだ、との声もあります。例えば、維新の方々がよくおっしゃるのですが、自称リベラルの護憲主義者が憲法を金科玉条のように守ろうとするのはむしろ保守じゃないか、というものです。変わらないから保守だということでしょう。一理あるでしょう。なにしろ昔はよかった、といって過去にしがみつくのは非常に危険です。環境が変化すれば変わらなければならない。昨日のブログでも書きましたが「夏が来れば薄着になり、冬が来れば厚着になる」ようなものです。冬が来たのに薄着のままであれば風邪をひいてしまいます。

同じ理屈で、環境に合わせて憲法のあり方の議論をするのはいいでしょう。それは国民にとっての権利でもあります。しかしながら、重要なのは「何をどのように変えるのか?」ではないでしょうか。憲法を、自民党の草案のように戦前の日本を彷彿とさせるような古色蒼然たるものに変えるのは、変えたという意味では改革かもしれませんが、あるべき改革ではないでしょう。

「改革」という斬新でポジティブなイメージをもった言葉を使って、良いものを悪く変えるやり方は、卑怯と言わざるを得ません。今の憲法は日本人が作ったものではない(実は多くの日本人も関わってきたという事実が最近は出ていますが)ので変えるべき、というのもよく似たレトリックで、現行のものが良ければ変える必要はないし、変える必要があるというのであれば、それを指摘して吟味して変えればいいのです。

つまり、今の憲法論議は、変えるか変えないかの話ばかり。大きく欠けているのは「何をどのように変えるのか?」という議論です。変えないことを、現行に固執した考えと批判するのは、明らかにおかしな話です。変えようという方が、説明責任を果たすのが筋です。

維新は具体案として、教育の無償化を憲法に書き込むと言っています。教育の無償化は私も賛成ですが、なんでこれが憲法に書かなければいけないのかがさっぱり分かりません。普通の法律でいいでしょう。うがった見方ですが、これまでの維新の動きを見ていると、自民党にべったりと寄り添ってきています。要するに、教育の無償化という耳障りのいい言葉を改革という斬新なイメージにのせて、憲法を自民党草案のような古色蒼然たるものに変えようとするお手伝いをしているとしか思えません。

改憲勢力という与党や維新などは、衆参で3分の2を有していますので発議までもっていくことは可能です。しかし、それまでには議論も深まり最終的には憲法案の詳細が出てきます。民進党は、地方自治をさらに進めるための施策など、日本を取り巻く環境を睨み、必要であれば憲法の中身をしっかりと議論をしていくスタンスです。最後は国民投票での判断になりますが、それまでの議論のプロセスもきれいな言葉で飾られていないかなど、しっかりと注視していかなければならないと考えます。

村上のりあつ【衆議院】大阪府第1区総支部長
大阪生まれ、大阪育ち。 同志社大学卒業後は主に東京で仕事をし、アメリカのイェール大学では経営学を学びました。 コンサルティング会社、グローバル企業であるロイター通信やフォード自動車等では人事の責任者として経験を積み、長年ビジネススクールの講師も務めております。 グローバルと日本の両方の経験を、是非とも大阪の皆さんとともに国政に活かしたい、その思いでいっぱいです。

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